絵に描ける幸せは素晴らしい。
もっと素晴らしいのは、想像以上の絵が出来始めたときです。
どうなるんだろう。ホントニ サキガ ヨメナイヨ・・・
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六徳の中から世界を見つめていると思っていたのに、実は外から見ていた例。
こんな質問を過去に受けたことがあります。
「私はいつも、六徳の中にいるようにと努力しています。ですが、回りの人間たちの影響でついつい外に出されてしまいます。
なんであんな人が支持されるの。六徳から外れている人が、何故に・・・。
六徳のなかにいる人が評価されるべきなのに、六徳の外にいる人が評価されるのは納得がいきません。」
なるほど・・・。
つまり、こういうことですよね。
世間から見たら、この人はとても良い人だと思われている。そして、その人は何故か支持されて、それなりの社会的地位を持っている。
これでは、いけない。もっと本質を見極めるべきだ!
わかります、理解できます。辛い気持ちになりますよね。
ですが・・・。
この考え方はですね・・・六徳の中から判断しているようで、実は外からの判断なんですね。
六徳の中にいると・・・「何故、あの人は評価されるんだろうか?」と考えたとき、六つの徳から、「当てはまっている」「当てはまっていない」と検討します。そして、「当てはまっていない」ことに対して、「それが間違っているからなんだ!」と、原因の特定にいたるわけです。
そして、この原因を誰も見ないのか? 知らん振りしているのか、それとも見えていないのか?
さて、ココまでは六徳の中にいます。
しかし、以下からは六徳の外にいます。
「六徳の外にいるということを知らないのだな、皆は。なんたることだ。これではこの組織はダメなものになる」
「なんで気付かないんだ。誰か・・・。」
六徳の中にいると以下になります。
「そうか、誰も気付いてないんだな。よかった私は気付いて・・・。 問題の人は、六つの徳のほぼ全ての中にいる。だけど、一項目だけハズれている。そうか、問題の人は、ソコントコロに気付いていないんだな。気づくことを知らないんだな。学んでいないんだな。そうかぁ、私自身も、以前はこれでいいと思っていたけど、実はそうじゃないんだな・・・」気付いて良かった。問題の人がに良き気付きの道を歩むことができますように・・・」
六特は様々な、肉体的、精神的革命と進歩を促し、自分の夢や願望を実現する近道を示してくれます。
しかし、同時に、今まで未知であった「幸せ」が目の前に転がり込んでくることが多々あります。
「未知」であることは恐怖を生み、不確定要素として慎重に精査されます。
俗に言う、「石橋を叩いて渡る」ってやつですね。
人は歩みをとめたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。
この道を行けばどうなるものか。
あやぶむなかれ。
歩まずば道は無し。
踏み出せばそのひと足が道となり、そのひと足が道となる。
迷わずいけよ、いけばわかるさ。
アントニオ猪木
未知なる未知は、言い換えれば「歩いたことの無い道」 または、草ぼうぼうの未開の道。
つまり、初めての経験を体感し、戸惑ってしまうのですね。
未知の道を行くことで失敗をしないか。
いいですか。
「未知」なわけだから、その先が「成功」なのか、「失敗」なのか、行動を移さない時点では、何の判断もできないんです。
でも、その先には、自分の想像をはるかに超えた幸せがまっているようだ。
さぁ、どうしよう・・・。
迷わず行くか。立ち止まるか?
想定内の不幸せが続き、別にそれでもイイヤと諦めるならそれで構いません。
私は・・・ね、覗いて欲しいですね・・・未知なる幸せへの道。
道の先にある「想定外の幸せ」・・・。
想定内の幸せって、「目に見えた」ものでしょ。
どうせなら、想定外の幸せをつかんで見ませんか?
さて、眠くなってきました・・・。
本日は、急な告知にも関わらず、19名の皆様方のご参加を頂きまして、たいへん嬉しく思います。
願わくば、参加者さん全員が和気あいあいとお話をする雰囲気を作り出してあげればな・・・ってね。
そこから始まる「想定外」の幸せも、十分にありますから・・・。