人はそれぞれ「先入観」とか「価値観」ってありますよね・・・
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この世に存在する人間の全てにおいて、各々が育った環境と、自らが得た知識や慣習、そして意志というものが全く同じ人間というのは、まずいないでしょう。
それだけのバリエーションがあるからこそ人間世界は面白く、また難解でもあります。
例えば、ちょっとした言葉のかけ違いから「誤解」が生じる。
そして、その「誤解」は更なる「誤解」を生み出したり、ヘタをすると「ケンカ」にもなります。
一番たちが悪いのは、誤解から生じる「中傷」や「皮肉」。
もうね、これがどんどん事態を悪化させてしまいますの。
しっちゃかめっちゃかになってしまった時、神仏御先祖様はどう見るか?
神仏はやはり黙ってみてることが多いです。無視ではありませんよ。
「さぁ、人間よ。これから貴方はどうするの?」という姿勢。
これに対し、御先祖様はガンガンに働きかけます。
「オイオイ、これじゃいかんよ!」 「こんな言葉を使っちゃいかん」 「お願いだから仲良くしようよ」
さて、そういう御先祖様の働きかけも神仏は見ています。
一家の一大事。子孫繁栄の分岐点。兄弟姉妹の和合の持っていきかた。
誰だってこのままでいいとは思わないはず。なんとかしたいって思うでしょう。
さて、ここでなのですがね・・・・
こういう争いごとを「収める」人が、以前は村々に一人はいたものです。
「調停役」とでもいうのかしら。
これこそ「地域力」。 人の和合と繁栄、村の進化と安泰を望む人。
こういう人の発する言葉には力があり、愛があり、包み込むような安心感を人々に与えたそうです。
骨肉の争いの中において、血族が解決を試みる場合。
「あんたは誰の味方なの?」という言葉がついてくることが多いです。
そうなると、もう血族での解決が難しくなってしまう。
ではどう解決するか?
一端その場から引いて、頭を冷やす期間が必要でしょう。
シーミー(清明祭)が近くなると、「気落ち」する方々が増えてきます。
さて、ゴタゴタしている姿を、御先祖の墓で見せてはいけませんよ。
墓の前でのゴタゴタは御法度です。
どうしてもゴタゴタするのが目に見えていたら、口実を使ってでもいいです。
時間をずらすか、日にちをずらすのもひとつの方法だと思います。
言葉というのはすばらしい天使の姿をすることもあれば、悪魔になることもあります。
他人はどうあれ、自分自身の言葉に集中し、改善すべきとこは改善するという姿勢を怠ってはいけません。
「ふわふわことば」 「ちくちくことば」