言葉の恐さ・・・解決の力 地域力

パパヒガ

2014年03月27日 23:45

人はそれぞれ「先入観」とか「価値観」ってありますよね・・・


↓ポチットな↓


スピリチュアル ブログランキングへ



この世に存在する人間の全てにおいて、各々が育った環境と、自らが得た知識や慣習、そして意志というものが全く同じ人間というのは、まずいないでしょう。

それだけのバリエーションがあるからこそ人間世界は面白く、また難解でもあります。


例えば、ちょっとした言葉のかけ違いから「誤解」が生じる。

そして、その「誤解」は更なる「誤解」を生み出したり、ヘタをすると「ケンカ」にもなります。

一番たちが悪いのは、誤解から生じる「中傷」や「皮肉」。

もうね、これがどんどん事態を悪化させてしまいますの。


しっちゃかめっちゃかになってしまった時、神仏御先祖様はどう見るか?


神仏はやはり黙ってみてることが多いです。無視ではありませんよ。

「さぁ、人間よ。これから貴方はどうするの?」という姿勢。


これに対し、御先祖様はガンガンに働きかけます。

「オイオイ、これじゃいかんよ!」  「こんな言葉を使っちゃいかん」  「お願いだから仲良くしようよ」


さて、そういう御先祖様の働きかけも神仏は見ています。



一家の一大事。子孫繁栄の分岐点。兄弟姉妹の和合の持っていきかた。

誰だってこのままでいいとは思わないはず。なんとかしたいって思うでしょう。


さて、ここでなのですがね・・・・


こういう争いごとを「収める」人が、以前は村々に一人はいたものです。


「調停役」とでもいうのかしら。


これこそ「地域力」。 人の和合と繁栄、村の進化と安泰を望む人。


こういう人の発する言葉には力があり、愛があり、包み込むような安心感を人々に与えたそうです。

骨肉の争いの中において、血族が解決を試みる場合。

「あんたは誰の味方なの?」という言葉がついてくることが多いです。

そうなると、もう血族での解決が難しくなってしまう。



ではどう解決するか?


一端その場から引いて、頭を冷やす期間が必要でしょう。



シーミー(清明祭)が近くなると、「気落ち」する方々が増えてきます。

さて、ゴタゴタしている姿を、御先祖の墓で見せてはいけませんよ。


墓の前でのゴタゴタは御法度です。


どうしてもゴタゴタするのが目に見えていたら、口実を使ってでもいいです。

時間をずらすか、日にちをずらすのもひとつの方法だと思います。



言葉というのはすばらしい天使の姿をすることもあれば、悪魔になることもあります。

他人はどうあれ、自分自身の言葉に集中し、改善すべきとこは改善するという姿勢を怠ってはいけません。

「ふわふわことば」 「ちくちくことば」 






関連記事