2017年12月08日
生きている人間の念がどうして他者に作用するのか?

皆さまこんばんは。パパ比嘉でございます。
生きている人間の念がどうして他者に作用するのか?
生きている人間の念と書けばどうしても想像してしまうのが「生霊」ですよね。
この「生霊」という文字からは、ほぼ間違いなくマイナスのイメージを想像することでしょう。
誰かを呪い殺したい。
不幸にしてやりたい・・・・とかですよね。
沖縄県(正確には琉球王朝時代)において、今から300年近く前の古い文献の中に、生霊で人を殺した罪を裁く裁判が行われたという記録が残されているようです。
ただ、果たしてそういった念があるのかないのかという論議を出した時、科学的な実験や考証の記録があまりなく、
しっかりとした理論で説明できる資料は世界中どこを探しても見つからないと思います。
しかし、逆の視点からこの「念」について実験した記録はあります。
念→祈り
誰かの幸せを祈って念を送る・・・「祈念」ですね。
元カリフォルニア大学の心臓学教授であったランドルフ・ビルドはサンフランシスコ総合病院で次のような実験を行いました。
実験はサンフランシスコ総合病院のCCU(心臓病集中治療室)に入院中の患者393人を対象に、10ヶ月にわたり行われたそうです。
393人の患者はコンピュータにより無作為に分けられ、祈られるグループ192人と祈ってもらわないグループ201人に分け、臨床実験で行われる厳密な基準を適用して行われました。
患者、看護婦、医師も、どのグループにどの患者が入るかを、知らないという厳格さ。
患者のために祈る人たちを全国のカトリックとプロテスタント教会、さまざまな宗教グループに呼びかけ、患者のために祈ってもらったとのこと。
祈る人には患者のファーストネーム、病名、現在の状況を簡単に知らせ、毎日その患者のために祈るように依頼。しかし、祈り方については、なんら指示はない。
患者1人につき祈る人は5人から7人の割合で。
結果は衝撃的。祈られた患者グループは、祈られないグループに対して、驚くほど良い治療効果を示したのだそうです。
〇 抗生物質を必要とした患者の数は、祈られないグループの6分の1であった。
〇 祈られたグループでは心臓疾患の結果、肺気腫になった人が、祈られないグループの3分の1であった。
〇 祈られたグループでは人工気道を確保する気管内挿管を必要とする人はいなかった。
一方、そうでないグループでは12人が人工気道を必要とした。
この結果を見て、ウィリアム・ノーラン医学博士は、「この研究は精査に耐えうるものだ。・・・・・・・ おそらく、われわれ医師は『一日3回祈ること』と処方箋に書くべきなのだろう。祈りは効くのである」と述べたといいます。
そして実験が「祈り」でなく、新薬や新しい外科の手術の方式であれば、「医学界の快挙」とか、「治療に突破口が開かれた」と華々しく宣伝されたはずだと言われました。
また、この実験から、祈りの効果は距離と関係しないこともわかりました。
サンフランシスコ総合病院の心臓病患者に対する祈りに関して、病院から遠い東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りも、距離に関係なく、同様の効果があった、ということです。
つまり、病院のすぐ側で祈るのも、何百キロ離れたところから祈るのも、効果は全く同じだということです。
従って、病人のすぐ側にいることができなくても、遠くから祈ってあげるだけでも、病状の進行を防いだり、傷みを和らげることができるのです。遠く離れた両親の無事を祈ることも、はっきり効果があるといえます。
ラリー・ドッシー医学博士はこの実験結果を次のように分析しています。「これは、祈りが現代科学で理解されているような『エネルギー』ではないことを端的に示している。エネルギー、例えば無線信号や光線は、距離が遠くなるにつれて急速に減衰する。もしも、ある種の精神エネ.ルギーが祈りに関与するとしたら、病院のあるサンフランシスコで祈った人たちは、遠いニューヨークやマイアミで祈る人たちに比べて良い.結果をあげることができたはずだ。距離が近ければエネルギーも強いと考えられるからだ。しかし、そのような相関性は発見できなかったのです。
この記事のしめくくりとして、「念」というものがどうして他者に作用するのかの特定は「困難」であるという結に達しますが、古来より世界各地で「念」を使う人々や術が存在しています。
しかしながらその念とは、他者を痛めつけるものではなく、他者を癒すこと、守る事を第一目的としています。
遠くの地へ旅立つ我が息子の幸と健康を思う親の念はきっと美しく、キレイに輝いていることでしょう。
同じような念を持つあちこちの国の親たちの念と念が相互に助け合い、力を減らすことなく愛する息子へ届くようなイメージをしてみると、この世には様々な「愛の念」が飛んでいることでしょうね。
私個人の考えとしては・・・
念とはきっと「音波」に近いものではないだろうかと考えています。
「言葉」に出して相手を想う。
「おはよう!今日も元気でいこう!」という挨拶から出る念は、それを聞いた人々を元気にするはずです。
「うわぁ、おいしそうだ!」と言葉に出してごはんをほおばるとき、それを作った人はきっと「微笑んでいる」ことでしょう。
「行ってらっしゃい、気を付けて」という言葉がけは、相手の安全を願い、無事に帰ってきてねという一種の呪文(良い意味です)。
人を幸せにしたいという念は、衛星放送の電波のようにあちこちで中継されて遠くまで届くのに対し、
人をおとしめてやるという念は、おそらく中継点が少ないか皆無であり、相当な念力(自身の命の力を削るほどの)を使うことだと思います。

上記の場合は「電波」ですが、未だ機器では感知できない「音波」が存在し、その波の到達距離は時間や量で変化するのかもしれません。
最後に・・・
深夜のAMラジオ放送を聞いたことはありますか?
昼間なら受信しないはずの遠い地域の放送を受信することがありますよね。
あれは、昼間に存在する「電波を吸収する」性質を持つ地球表面を取り巻く「電離層」の一種が影響しているわけですが、夜になるとその電離層の一種が消失し、別の種の電離層が電波を反射。結果として遠くまで届くわけです。
ひょっとして地球ってやつは・・・
地球てヤツが、そもそも「幸」の塊で、幸を伝達するという性質を持っているとしたらば・・・・
遠く離れた「誰かを幸せにしたい」という念を遠くまで飛ばすお手伝いをしているのかもしれない・・・。
な~んてことを考えたパパ比嘉でございました。
さて、明日の沖縄は雨模様だそうで・・・。
お出かけの際は傘の準備を忘れずに。
車で出勤の方は混雑を避けるため、ちょっと早めのご出勤を!
インフルエンザが流行り始めております。
うがい・手洗いをしっかりと!
では、おやすみなさい
皆さま善き夢を!
Posted by パパヒガ at 01:02│Comments(0)
│恐怖のモノのお話