2018年03月02日
禁断?人体実験
皆様こんにちは。パパ比嘉です。
むかしむかしのことです。
「これはしっかりとやったほうが良い」・・・だとか。
「やらなければ不幸になるよ」と言われたことに対して・・・。
あえてそれをやらずにいたら、どうなるかを実験したことがあります。
まずはお茶を一杯!

私にとっての禁断の実験とは何か?
それは「ヒヌカン」の実験。
神ダーリを繰り返して心身ともに疲れ果てている時でした。
そもそもそういった霊的世界を否定して生きていた私が「この世界」に引きずり込まれてからというもの、
ヒヌカンの拝みであったり、屋敷の拝みであったりをしっかりとやらねば不幸のなってしまうのではないかという恐怖感で、
毎月しっかりと拝みをし、季節時節の拝み事に厳しく従っておりました。
やがて神ダーリも収まり、自身のことから他者の事をするようになった時・・・
すこし落ち着いてその行事事について考えるようになりました。
もしもその行事事をしなかったらどうなるのか?
また、あの苦しい神ダーリ状態に戻ってしまうのか?
そこで、意を決して・・・、すべての拝み事を一旦停止し、自身がどうなってしまうのかを実験してみたのです。
毎月のヒヌカンの拝みを辞め、屋敷の拝みを辞めてみました。
※正月、旧正月、シーミー、お盆といった、他者(親戚など)が関わる行事はやりました。
停止した期間は約半年。
正直言って、「ビクビク」しながらの半年間でした。
家族に災いは起こらないか?
仕事の災いは起こらないか?
その結果は・・・「特に災いは起こらなかった」です。
その結果を得た私は、
「な~んだ、なにも起こらないじゃないか。」
そういう気持ちになったことを覚えています。
その後、ヒヌカンの拝みや屋敷の拝みを再開した訳ですが、実験結果から「気持ちが入らない」拝みになっていたことを覚えています。
その後も何も変わることなく過ぎていきました。
一年が過ぎた年末のころでした。
この一年間を振り返ったとき、災いは起こってはいませんでしたが、「何かしら足りないもの」が心に残っていました。
正月の準備をしながらスーパーに買い物に行ったときにふとそう感じたんです。
「何かが足りない」
買い物を終えて帰宅し、大晦日、元旦の準備をしていると、急に心が寂しくなってきたのですね。
どうしてそうなったのか。答えはすぐには出ませんでした。
その時の感情は「無為」というものに近かったと覚えています。
その時は、中国の賢者である「老子」の言葉にある「無為自然」のことなのかと考えていました。
※ 無為自然・・・作為がなく、自然のままであること
拝みをしないからダメになる。拝みをするとうまくいく。そういうことではなく、あるがままに生きていく。恐怖や願望で拝みをするのではなく・・・。
そう理解しているつもりでいました。「作為」があっての拝みを禁じた結果が「急な寂しさ」となったのです。
※ 作為・・・自分の意志で行う積極的な行為のこと。
今回の場合は、悪くならないように拝みをしなければならないとか、幸福になりたいから拝みをするとういうことでとらえてください。
結局、年が明けた春先になってようやく思いました。
「〇〇になりたい・・・」
そういう願望を持つことに何も悪いことはなく、それをヒヌカンや屋敷のウガンで「伝えることに」恐れを抱いては成らない。
幸せになりたい。お金持ちになりたい。健康でいたい。みんなと仲良くなりたい。
そう思い願うことはとても大事なのです。
そう祈って願うことになんら災いはありませんです。
大事なのは、そういう願望は たったひとり で成せるものではないということを
知っておくこと!
ヒヌカンの拝み、屋敷の拝みに限らず、世界各地にあるあらゆる祈りや願いを神仏ご先祖に願うのに何も悪いことはないと思っています。
よく、神社にお参りする際は「挨拶」をするという気持ちでお願い事はしないほうが良いという情報が流れていますが、それはどうかと思っています。
ただただ・・・大事なのことが一点あります。
それは、月並みではありますが、「感謝」という念を持っているコト。
かつて「万有引力」を発見したニュートンは、リンゴが気から落ちることで重力を発見しました。
彼はリンゴの木からリンゴが落ちることを不思議に思いました。
そこで、リンゴの木がもっと高かったからどうなるのか?
高さで変わるのかと考えを深めていたのですが、リンゴの木が月の高さまであったとして、なぜに月は地球に落ちてこないかという考えにたどり着いて重力や引力を発見した訳です。
月ほど重いものがどうして落ちてこないのか?
それは、「引力」と「重力」の力のバランスがあって初めて「そこに」あるということです。
お互いが引き合っいても、そこに回転が加わってバランスが保てている。
「何もしない」「何もしていないという」ということではなく、そこに何らかの見えない力が働いている。
私たち人間も たったひとり では生きていけません。
人はお互いを 慈しみあう 気遣う という「引力」で引き寄せあいます。
またひとは、お互いを 憎しみあい、傷つけあう という「引力」でも引き寄せあいます。
大事なのは、その引き寄せに加わる「回転力」です。
「回転力」=「感謝の念」
そういう回転力が加わったとき、そこに初めて幸への引き寄せが始まるのではないかと思います。
ヒヌカン拝み、屋敷拝みの中に・・・そして神仏への祈りの中に・・・・
こうやって日々が暮らせているのは、たくさんの人と物の関りがあってこそであるという想いをしっかりと乗っけていけば良いと思います。
即効性のある幸への道を開こうと思うのなら、その「回転力」を養う力と学びが必須。
幸への道を開く情報をしっかりと見極め、実践していきたいものです。
世の中に飛び交っている情報というのは、必ずなんらかの「力」が付加されています。
つまり、誰かが誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり・・・
その情報の発信者の利益を図る方向性が付加されています。
それを差し引いて見れば、より本当の事実関係に近いものが見えてくるのではないでしょうか?
こういう記事を書かせていただける機会があることに感謝ですね。
ありがたいです。
むかしむかしのことです。
「これはしっかりとやったほうが良い」・・・だとか。
「やらなければ不幸になるよ」と言われたことに対して・・・。
あえてそれをやらずにいたら、どうなるかを実験したことがあります。
まずはお茶を一杯!

私にとっての禁断の実験とは何か?
それは「ヒヌカン」の実験。
神ダーリを繰り返して心身ともに疲れ果てている時でした。
そもそもそういった霊的世界を否定して生きていた私が「この世界」に引きずり込まれてからというもの、
ヒヌカンの拝みであったり、屋敷の拝みであったりをしっかりとやらねば不幸のなってしまうのではないかという恐怖感で、
毎月しっかりと拝みをし、季節時節の拝み事に厳しく従っておりました。
やがて神ダーリも収まり、自身のことから他者の事をするようになった時・・・
すこし落ち着いてその行事事について考えるようになりました。
もしもその行事事をしなかったらどうなるのか?
また、あの苦しい神ダーリ状態に戻ってしまうのか?
そこで、意を決して・・・、すべての拝み事を一旦停止し、自身がどうなってしまうのかを実験してみたのです。
毎月のヒヌカンの拝みを辞め、屋敷の拝みを辞めてみました。
※正月、旧正月、シーミー、お盆といった、他者(親戚など)が関わる行事はやりました。
停止した期間は約半年。
正直言って、「ビクビク」しながらの半年間でした。
家族に災いは起こらないか?
仕事の災いは起こらないか?
その結果は・・・「特に災いは起こらなかった」です。
その結果を得た私は、
「な~んだ、なにも起こらないじゃないか。」
そういう気持ちになったことを覚えています。
その後、ヒヌカンの拝みや屋敷の拝みを再開した訳ですが、実験結果から「気持ちが入らない」拝みになっていたことを覚えています。
その後も何も変わることなく過ぎていきました。
一年が過ぎた年末のころでした。
この一年間を振り返ったとき、災いは起こってはいませんでしたが、「何かしら足りないもの」が心に残っていました。
正月の準備をしながらスーパーに買い物に行ったときにふとそう感じたんです。
「何かが足りない」
買い物を終えて帰宅し、大晦日、元旦の準備をしていると、急に心が寂しくなってきたのですね。
どうしてそうなったのか。答えはすぐには出ませんでした。
その時の感情は「無為」というものに近かったと覚えています。
その時は、中国の賢者である「老子」の言葉にある「無為自然」のことなのかと考えていました。
※ 無為自然・・・作為がなく、自然のままであること
拝みをしないからダメになる。拝みをするとうまくいく。そういうことではなく、あるがままに生きていく。恐怖や願望で拝みをするのではなく・・・。
そう理解しているつもりでいました。「作為」があっての拝みを禁じた結果が「急な寂しさ」となったのです。
※ 作為・・・自分の意志で行う積極的な行為のこと。
今回の場合は、悪くならないように拝みをしなければならないとか、幸福になりたいから拝みをするとういうことでとらえてください。
結局、年が明けた春先になってようやく思いました。
「〇〇になりたい・・・」
そういう願望を持つことに何も悪いことはなく、それをヒヌカンや屋敷のウガンで「伝えることに」恐れを抱いては成らない。
幸せになりたい。お金持ちになりたい。健康でいたい。みんなと仲良くなりたい。
そう思い願うことはとても大事なのです。
そう祈って願うことになんら災いはありませんです。
大事なのは、そういう願望は たったひとり で成せるものではないということを
知っておくこと!
ヒヌカンの拝み、屋敷の拝みに限らず、世界各地にあるあらゆる祈りや願いを神仏ご先祖に願うのに何も悪いことはないと思っています。
よく、神社にお参りする際は「挨拶」をするという気持ちでお願い事はしないほうが良いという情報が流れていますが、それはどうかと思っています。
ただただ・・・大事なのことが一点あります。
それは、月並みではありますが、「感謝」という念を持っているコト。
かつて「万有引力」を発見したニュートンは、リンゴが気から落ちることで重力を発見しました。
彼はリンゴの木からリンゴが落ちることを不思議に思いました。
そこで、リンゴの木がもっと高かったからどうなるのか?
高さで変わるのかと考えを深めていたのですが、リンゴの木が月の高さまであったとして、なぜに月は地球に落ちてこないかという考えにたどり着いて重力や引力を発見した訳です。
月ほど重いものがどうして落ちてこないのか?
それは、「引力」と「重力」の力のバランスがあって初めて「そこに」あるということです。
お互いが引き合っいても、そこに回転が加わってバランスが保てている。
「何もしない」「何もしていないという」ということではなく、そこに何らかの見えない力が働いている。
私たち人間も たったひとり では生きていけません。
人はお互いを 慈しみあう 気遣う という「引力」で引き寄せあいます。
またひとは、お互いを 憎しみあい、傷つけあう という「引力」でも引き寄せあいます。
大事なのは、その引き寄せに加わる「回転力」です。
「回転力」=「感謝の念」
そういう回転力が加わったとき、そこに初めて幸への引き寄せが始まるのではないかと思います。
ヒヌカン拝み、屋敷拝みの中に・・・そして神仏への祈りの中に・・・・
こうやって日々が暮らせているのは、たくさんの人と物の関りがあってこそであるという想いをしっかりと乗っけていけば良いと思います。
即効性のある幸への道を開こうと思うのなら、その「回転力」を養う力と学びが必須。
幸への道を開く情報をしっかりと見極め、実践していきたいものです。
世の中に飛び交っている情報というのは、必ずなんらかの「力」が付加されています。
つまり、誰かが誘導しようとしていたり、願望が含まれていたり・・・
その情報の発信者の利益を図る方向性が付加されています。
それを差し引いて見れば、より本当の事実関係に近いものが見えてくるのではないでしょうか?
こういう記事を書かせていただける機会があることに感謝ですね。
ありがたいです。
平日(月から土)午前9時から午後4時まで鑑定面談やってます。
(日曜日時間外出張での面談 要相談)
現在、一日に二件限り(午前・午後)の予約とさせていただいております。
新年度からは詳細鑑定のみを検討しています。
私の性格上、時間や制約付きでお伝えしたいことを途中で切るのは出来ません。不器用ですみません。
ご予約は→siawasesagasi05@yahoo.co.jpまで!
ホームページあります。コチラをクリック→「琉球の未来鑑定師 時之大屋子 パパ比嘉」
※メール、ショートメール、SNSでのご相談(アフター)返信にお時間かかっております。ごめんなさい。もうしばらくお待ちください。
六徳学初級講習受け付けています。マスター講座の受講者の皆さん、第一期の方、恩納村事務所にて個別指導中です。
2月8日更新情報
六徳学初級講座を個別で指導していきます。一時間2000円となります。
申し込みはsiawasesagasi05@yahoo.co.jpまで!
Posted by パパヒガ at 14:39│Comments(0)
│パパの修行についてのお話