人はそもそも「性悪」か「性善」か? 六徳視点で考える

パパヒガ

2015年06月04日 23:02

皆様こんばんは。

比嘉です。


エアコン・・・どうぞご協力ヨロシクお願いいたしまする!


さて・・・・

六徳仲間であります「〇川さん」からの質問がありました。

先日、知人と酒の席にて・・・


人はそもそも性善なのか性悪なのかという話しをしました。


答えは出ませんでしたが、六徳でそれを紐解けるかとということでありました。



わたくし、数日間考えました。


以下は私の個人的考えです。

結論から言います。


私は性善であると考えています。




人はそもそも、誰かを幸せにしたいという「お役目」を持ってこの世に産まれ出てくることを前提に書きます。

幸せにするということは「善」だと考えます。


最初のスタートは、「性善」であると信じています。

次に、私たち人間は「ルール」を決めました。


人を殺してはいけない。人のモノを取ってはいけない。親を大切にしなければならない・・・など。

何故にこういうルールを決めたのか。

それは、人は弱く、悪に走りやすいと考えたからでしょうね。


エゴを満たして欲望を貪りたい。楽をしたい。苦労はしたくない・・・など、人はどうしても、手にある物以上の快楽を欲しがってしまいますよね。

それの抑制が効かない生き物であると、太古の昔から人は知っていたのでしょう。


そしてその欲望は、人類が誕生して今日まで治まる気配が無いと思いませんか。

その視点から考えると「性悪説」も意味を成すでしょう。



また、善と悪は紙一重でもあります。


「善」という概念は、その反対である「悪」があってこそ成り立つものであり、「悪」を知ってこそ「膳」でありたいと願うわけです。


六徳は、「悪」を知っているからこそ理解できる「善」への道であると思っています。



六徳は、「善」でありたいと願う心から生まれた考え方です。

それは、もともと人は「悪」であるからということではなくて、「善」でありたいと願う心あってこそのもの。


それ自体が、「性善」であると考えることは容易ではないかと思いました。



この世の全ての人が親は大事にするのが当たり前だと知っていて、その通りに行動しているのならば、そもそも親を大事になんて考えは生まれません。

当たり前だからです。まるで呼吸するかのように当たり前だからです。


しかし、それが出来ないわけだから「戒めて」いるのですものね。



さて、ちょっと話しを変えますね。


もしも以下のような労働条件の仕事があったらあなたはどうしますか?

労働基準監督所に訴えて、雇用主を糾弾しますか?

弁護士を立て、「これは不当」だと裁判を起こしますか?


〇 朝6時か7時から深夜1時くらいまで。休憩時間なし。時に早番ありで残業もあり。

〇 週7日勤務、日曜祝祭日、年末年始も休み無し

〇 ボーナス無し、自給0円


さて、こういう労働条件の仕事があったとしたら、あなたはやりますか?


やらないですよね、普通は。

だって、ただ働きなんだもの。バカらしくてやってられない。


ですが、この労働条件で頑張っている人が世の中にはたくさんいらっしゃるんですよ。

わたしたちの身近にいーっぱいあります。

「性善」でなければやってられなーい・・・。

さて・・・


その仕事とは・・・「子育て」です。


当たり前すぎて気付かないでしょ。


なんで当たり前って思うのか・・・・。



これは労働なんかじゃない、「愛」あってこそのものだから。



そうなんです。


こんな過酷な条件でも、「愛」があれば出来ちゃう。


つまり、人が性善であるための必須条件は「愛」がそこにあるかどうか。



他人を愛する力・・・そして、

自分を愛する力。




六徳は、他人を愛する力と自分を愛する力を同時に養うモノであります。




他者を愛せないし、自分も愛せないということであれば、人は性悪でありましょう。



性善でありたいか、性悪でありたいか。


人はそれを自身で選ぶことが出来ますよね。



人はもともと性善か性悪か?



生まれたときは皆が「性善」であるという観点から、人は性善であると私は思っています。


そして、やがて人は「選ぶことが」出来ます。


愛が欲しいか、いらないか。


そこで第二の選択。



あんたは性善でありたいか~



それとも・・・



あんたは性悪でありたいか~




答えになっていなかったらごめんなさい。




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