沖縄市六徳「中級」講座、決定です。
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場所
UCHI CAFE 「 ひと休み」
沖縄県沖縄市高原1-5-31
TEL:930-6566
時間:午前10時~12時まで
費用はお一人様5000円。(ワンドリンク込み)※ 出世払いOKです。
〇 準備するもの・・・「マクラ」「タオル」
中級は、六徳の⑥、②、そして⑤を強化するものです。
初級のおさらいもやりますね。
参加される方は、六徳の初級を受けられた方か、私から直接六徳の話しを聞いた方に限定させてください。
ご協力よろしくお願いします。
後日、スグに沖縄市・那覇市での六徳初級講座開催します。
よろしく御理解のほどお願い申し上げます。
限定10名様・・・残り4席。
さて・・・。
位牌継承問題。
めっちゃ触れてはいけない問題。アンタッチャブル!
今回の記事・・・きっと反対意見(ユタさん系列から)が多いでしょうね。
恐々書きます。
沖縄の位牌(トートーメー)の歴史から考えて見ましょう。
古琉球時代。そこには位牌は・・・・ありませんでした。
位牌が入ってきたのは、中国が「唐」と呼ばれていた時代に琉球に入ってきました。
しかし、今のように誰ガも彼がも持っていたわけではなく、士族(武士階級)に最初に伝わりました。
これは、琉球王府が武士階級に広めた・・・もっと強く言うと、強制的に設置させたのでしょう。
つまり、当時は文化というよりも「制度」として入ってきたのですね。
なんで武士に広まったのか。
それは「系譜」による武士血族の正統性・・・いわゆる「血統書付き」の家系を証明するためのものだったわけですね。(これを現代ではシジタダシとも言います)
やがてそれは一般民衆にも広がり始め、現代のように誰もが位牌を持つという形に落ち着きました。
当時、位牌継承は・・・必ずしも長男・・・ではなかったようです。
ネットで検索しても出ませんが、図書館などのアナログの資料には、様々な相続法があったことを示唆する文献が出てきます。
「親わずらい」「子わずらい」・・・親や子供の位牌継承における心配(わずらい)を無くす為にどうしたか。
なんと、親が位牌継承者を指名するというもの。
つまり、長男(嫡男)だけではなく、親が継承者を指名することもあるのです。
さらにまた分権を紐解くと、「末子相続」なども出てきます。
これは、その家の最後に生まれた子供に、位牌を継承するというものです。
これは「風習」として文献に残っていました。
長男相続の規範は、もともとなかったといっても過言ではないのです。
「チャッチウシクミ」・・・長男が位牌を継がなければいけない。違反すると子孫にたたりが現れる
「チョーデーカサバイ」・・・同じいはに兄弟姉妹が入ってはならない。違反すると子孫にたたりが現れる。
「イナグゥグヮンス」・・・女性が筆頭になる位牌を作ってはいけない。持ってもいけない。違反すると・・・。
「タチーマジクイ」・・・他家の地が位牌継承者になってはいけない。違反すると・・・。
これは位牌継承の4つのタブーと言われているものです。
でもねこれ・・・ただ単に、
結婚せよ、子供産め、離婚するな
・・・ってことを守ることにもなります。
このどれかに違反すると、たちまち4つのタブーのいずれか、もしくは全てに該当し、「先祖のたたり」なるものが出てくるのである・・・と、まことしやかに伝え続けられているのです。
まったくもってナンセンスです。
先祖は、子孫に悪さしません!
逆です!
「頑張れ」と、応援しかしませんよ。
位牌継承問題。それによって一家が離散した話しも聞きました。
まったくもって「本末転倒」です。
位牌というものは、琉球に昔からあるもではないです。
前述したように、中国の「唐」から入ってきたものです。
また、水子供養についても「?」と思わせるものがあります。
現在、水子供養と言えば、首里のだるま寺などがありますよね。手厚く供養してあげるための供養塔が祀られています。
でもね・・・昔はどうやっていたか・・・。
とある文献に、衝撃的なことが書いてありましたことを今でも覚えています。
流産(自然、人工を問わず)した赤子は、村の共同墓地に埋葬されればいい方で、地方によっては海沿いのアダンの林に捨てられたり、海に流したり、四辻に埋めたりと、散々な扱いを受けています。
当時は、死産した子は「悪運」と忌み嫌われ、手厚くどころか、かなりないがしろにされていたようです。
今とは大違いですよね。
死者を重要視し、生者を次にするという意味の「教訓」めいた言葉があります。
行き倒れになりそうな者がいたら、家の中にて息を引き取らせなさい。
妊婦が産気づいてしまっても、他人の家で生ませてはいけない。(他者の家で出産させると、その家の幸運を、赤子が全て吸い取ってしまうから)
なんかおかしいですよね。
私たちは今一度、自分の目と耳と、頭をフルに回転させ、理不尽に対し、凛とした態度で接しなければいけない時期に来ていると思います。